●概要:2011年3月11日 午前購入の小型目覚まし時計(”レシートなどの購入の証拠となるものはない”)。針が外してある。表示時刻が分からず、突然アラームが鳴る。

※展示する際の作品位置は原則、アーティストの指示に従うものとする。
その為、作品の展示希望者は展示の際、事前にアーティスト本人を展示する場所に呼び、その場で相談しその位置を決める。
(アーティストの死後、本作は展示会場に「置く」ことはできるが「展示」はできなくなる。)


【行為実施日時】 2011年3月11日 午前中購入。同年、針を外す。
【記録品(時計)の展示会場/日程】Being studio/2025年10月17日~

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この冬に、初めての子供が生まれる。

それに伴い、幾つかの育児体験記を見聞きするようになり、
”子育てを経て自分の人生のナラティブが変わった”という発言を幾つか見た。

「自分の人生の主人公が自分でなく子供になった。」
「”自分の死=無”ではなくなり、死の恐怖が消えた」 など。

また最近は子供の人生を考えるようになり、必然的に自分の人生も振り返っている。

自分がここまで来たこと、これから至ることを考える。
子供の人生、配偶者の人生、親の人生、それ以外の身近な人の人生、
身近でない人の人生も考える。

必然的にそれぞれの人生が相対化され、俯瞰的な存在に思えてくる。

この文章を書き始める数日前、久しぶりに、ふと

「ぅわ! これが俺の人生なんだ。」

と目が覚めるように、はっとした。自分がいる今になんのオルタナティブもない。同時に身の回りの全てのものの唯一性に圧迫され、スッと血の気が引いた。

(私は大抵の場合、この感覚に蓋をして、目をそらして生活をしている。
私を取り巻く多くのものは、基本的に私にとっての私の人生の貴重さに興味がないし、従ってそれを意識しすぎると生活に差しさわりが出ると思っている。それにそもそもそこばかりを見つめていても、多分しょうがないと思うので。)

上述の感覚は数年前に、訳あって見た悪夢に通じる。

そこで私は、自分が「決定的に間違った場所」に来てしまったように思った。

そこは「生まれて生きて死ぬ」という予測された人生と、その時間ではない、それまでのものとは決定的に違う時間、極端に言えば或る種の永遠を告げられたように感じていた。軽い気持ちで、決定的に違った場所に予定外に来てしまった感覚。本当に決定的に間違えたと思った。

※ただ、生まれて生きて死ぬ人生というのも、それはそれで悪夢的に思える。結局それ以上の救いがないのだとしたら。
(ちなみに私は生まれてくる子供をその救いと感じるとは思えないし、思いたくない。)

生きている時間は代替不可能な在り方だが、それは時々変わる。

剝き出しの自分の時間として人生をとらえる。